恐れるべきは、恐れる心それ自体であるということ

フランクリン・ルーズベルト米大統領就任演説に、有名な一節がある。

...the only thing we have to fear is fear itself...

 日本語に訳すと、「恐れるべきは恐怖それ自体」という意味だ。

 

人生において、乗り越えなければならない壁に直面し、あるいは綱渡りを余儀なくされる場面がある。

そうした試練に対して、ベストな準備をして、ベストな状態で臨めるならば言うことはない。しかし、人間は弱さを抱えた生き物であるから、重大な試練であればあるほど、プレッシャーに圧迫され、ベストなパフォーマンスを発揮できないことも多い。

また、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がある。しかし、失敗すれば人生の再設計を余儀なくされるような試練においては、いかに人事を尽くしたところで、穏やかな気持ちで天命を待つことはできないのが現実だろう。

 

もし、この試練を乗り越えられなければ、人生はどうなってしまうのか。

そうした将来への不安に憑りつかれ、日々の生活が、心ここにあらずといった状態になることもある。

結果への不安で勉強や仕事に手がつかず、来る日も来る日も、本来ならば有意義に使えるはずの時間を、何事も為さずに過ごしてしまうかもしれない。

 

しかし、人生において最も大切なのは、限られた人生の時間を、満足の行くように過ごすことだ。

人生において直面する試練は、結局のところ、そのための手段であり経過地点に過ぎない。

よって、試練の結果に気を揉み、そのために日々の活動が疎かになるようでは、本末転倒だろう。いかなる精神状態だろうと、自分がやりたいこと・やるべきことを優先して行っていくべきである。

 

不安や恐れは、人間が危険を察知し回避するためのアラームであり、必要なものだ。

しかし、まるで幽霊のように、不安や恐れが心に憑りついて離れなくなると、人は自分の人生を強く生きていくことができなくなる。

恐れるべきは、恐れる心それ自体であり、不安や恐れを克服するための勇気を持たねばならない。

【日常録】夕暮れの住宅街を散歩すること

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私は、夕暮れの住宅街を散歩するのが好きである。

住宅街、それも実際に住んでいる家から遠く隔たった、初めて駅から降り立ったような場所がいい。

 

夕暮れ時、駅の改札を抜け、家路を急ぐサラリーマンたちに紛れて、私も住宅街へと向かう。あたかも、私もまた家路につく一人であるような顔をして、薄暗く青い空の下を歩く。

10分ほど歩き続けて、私の前を歩いていたサラリーマンたちが、一人、また一人と、立ち並ぶ家のドアへと吸い込まれていく。

その様を見届けながら、あるとき心の奥底に、「もしかしたら私の家もこの近くにあるのではないか?」との錯覚が生まれてくる。

 

あの角を曲がれば、そこに私の家があるのではないか。

しかし、曲がっても、私の家は見当たらない。

向こうに見える、次の角を曲がれば…しかし見当たらない。

 

そんなことを繰り返しているうちに、すでに駅から離れてしまって、それでも私の家は見つからない。

これ以上歩くと、もはや帰る道も分からなくなってしまうので、引き返すほかない。

 

私の家は、どこにもなかった。

私の立っているすぐ隣には、窓に橙色の明りが灯る、こぢんまりとした戸建ての家がある。

中から子どもの笑い声と、音量は小さいけれど賑やかなテレビ番組の音声が聞こえてくる。

反対側の家からは、金物の料理器具がぶつかる音が聞こえてくる。

住宅の密集したこの場所に、多くの人の生活が存在しているのに、私の居場所はどこにもない。

その疎外感に心がずんと重くなりながら、駅へと戻る道すがら、時折、踏切の警告音が聞こえてきたりすると、なぜか心が少し楽になるような気がするのだ。

 

さて、駅について、私の家のある街へ帰る電車を探す。

電車に乗ると、同じく「家のある街」へ帰ろうとしている人々がいる。

私は、やっと同じ境遇の人と合流できたことに安心感を抱きながら、自分の生きる現実へと戻っていくのである。

柔らかくクッション性のある座席に座り、心地よい振動に身を任せていると、住宅街を歩き回った疲労感から、ウトウトしてくる。

電車を降りたら、駅前のラーメン屋で夕食にしようなどと、薄れゆく意識の中で考えていた。

【日常録】人生の低成長時代について

本ブログは、私の信仰を書き記すために開設されたものであった。

しかし、元々、文章を書くのがあまり得意ではない上に、信仰というものが直観される機会はそうそう訪れるものではないため、すっかり記事の更新が滞っていた。

そこで、今回から、日々の雑感を書き記すことで、本ブログを再活用していこうと思う。

 

時間は、経過していく。年齢も、否が応にも積み重ねられていく。

しかし、ここ数年、私の人生は停滞していると感じる。

 

人間、幼いうちは、日進月歩の勢いで成長していくものだ。

10代後半にもなれば、身体的にはほぼ「大人」と変わりないほどに成長し、その後もなお内面的な成長は続いていく。

もっとも、勢いのある成長はいつまでも続かない。

例えば、身長の成長のピークは10代後半で止まり、その後は低成長あるいは維持、いずれは衰退の時代を迎えざるを得ない。

そして、これは身体の成長に限った話ではなく、内面も同様ではないかと思う。

10代よりは20歳の方が、20歳よりは25歳の方が、精神は「大人」になっているのが通常である。しかし、精神の成長も次第に鈍化していくもので、私の実感としては、25歳を超えた辺りから、自分の内面的な部分はあまり変わらなくなってしまった気がする。

大人になるということは、すでに成長の時代を終えて、良くて低成長、現実的には現状維持、そしていずれは衰退していく自分自身を受け入れていくことでもあるのではないか。

 

もっとも、仮に低成長時代に突入したとしても、大人の人生は必ずしも退屈なものではない。

大人は、自らの成長の代わりに、次世代を担う子ども達を成長させる役割を担っている。

大人になり、誰かと結婚し、家庭を持ち、子が生まれ、子が日々育っていく。

そのように目の前の景色が次々と移り変わっていけば、決して、低成長時代にあっても退屈を覚えることはないだろう。

 

さて、私の人生が停滞していると感じるのは、この点に関してである。

私は、20代後半でありながらいまだに学生をしていて、まとまったお金もなく、交際している異性もいない。

とりわけ、今は新型コロナウイルス感染症の影響で、外で人と会うことが制限されている時期であり、異性との縁が発生する余地もない。

もっとも、これはコロナ以前においても、そうだったのだが…。

 

勉強面では、専門分野の勉強をだらだらと続けており、日々新たなことを理解できたり、できなかったり、あるいは忘れてしまったりするが、総じて多少、進歩できているような気がしないでもない。

しかし、勉強していることを仕事に使えるようになるのは、早くても数年後であるから、成果に結びつくまでまだ時間がかかる。

 

たまに、高校時代の友人と話をすることがある。

私の友人は、私と同じく、あまり異性から人気のない男たちであり、異性関係での華々しい話を聞くことはない。

そこで出てくる話題といえば、最近のゲームとか、アニメとか、YouTubeの面白い動画とか、仕事のことである。この点では、私と彼らの共通の関心事は、昔からあまり変わっていないのかもしれない。

彼らもまた、私と似たような人生を送っているのだろうか。(もっとも、彼らは定職に就いているので、その点は私とは異なる。)

 

大人になると、人生は低成長になる。

だからこそ、新たに家庭を持ったりして、自分の置かれている状況、目の前の景色を変えることが重要になり、そうすることで退屈せずに人生を生きられるのだと思う。

しかし、私の人生は、今のところ、ゼンマイの切れた時計のように止まってしまって、動き出す気配がない。

あるいは、これは私だけでなく、似たように感じている仲間もいるだろうか。

よく分からないが、早く「大人の人生」を始動させたいものである。

欲望:あなたを苦しめる悪い霊

この世には、良い欲望と悪い欲望があります。


たとえば、小学生が「テストで90点を取ってお小遣いをもらいたい!」と思ったとします。この欲望を達成するために、その子は一生懸命勉強することでしょう。そして、小学校のテストで90点を取ることは、頑張り次第で可能なことです。じっさいに達成できれば、その子はお小遣いをもらえますし、学力も向上します。良いことづくめです。

別の例を考えてみましょう。働いている人が、「週末に美味しいものを食べたい!」と思ったとします。その人は、この欲望の実現を楽しみにして、平日の仕事を頑張ることでしょう。そうすると仕事がはかどり、週末の食事はよりいっそう、美味しく感じられます。

これら2つの例は、いずれも「良い欲望」です。


他方で、次のような場合はどうでしょうか。

残念ながら、生まれつき容姿に優れない女性がいるとします。その人が、「美人になりたい」と願ったとします。この欲望は、簡単には叶えられません。

場合によっては、美容整形を受ける必要があるかもしれません。しかし、現実として美容整形にも限界があり、元の顔つきによっては美人にはなれないかもしれません。

「美人になりたい」という欲望は、その人を苦しめることでしょう。じっさい、このような欲望が強まりすぎて、醜形恐怖や整形依存に陥ってしまう人も多くいます。美容整形の費用を稼ぐために、身体を売る人もいます。そしてますます不幸になってしまいます。

これは、「悪い欲望」の例です。


では、「良い欲望」と「悪い欲望」を分けるものは何でしょうか?


簡単にいうと、それは「自分の手に負えるかどうか」の違いだと言えます。

別の言葉に言い換えると、「自分にとって現実的に達成可能か」あるいは「自分にとってコントロール可能か」ということです。

そして、自分が頑張れば達成できる欲望は、「良い欲望」。

自分が頑張っても達成するのが難しい欲望は、「悪い欲望」です。


人は、それぞれ違った能力・違った素質をもって生まれます。

ある人にとっては簡単に達成できることでも、別の人にとっては努力しても難しいということがあります。

さきほど書いた、「美人になる」というのは、まさにその一つです。もともと美形な顔つきに生まれた人であれば、ちょっと化粧の仕方を工夫すれば、美人になれるでしょう。しかし、顔つきからして優れない人は、大がかりな美容整形手術を施さないと(あるいは施しても)難しいでしょう。


そして、ある人にとって現実的に達成するのが難しいことを欲望にすると、その人は大きな困難と苦労を感じることになります。

「悪い欲望」の正体はこれです。

人は、自分に向いてないこと・苦手なことを欲望にすると、その実現に向けて努力した分だけ、どんどん心が傷ついていきます。そしてその人は、間違いなく不幸になります。


ここで注意しなければならないのは、欲望とは霊のようなもので、自然と人に取り憑いてしまうということです。

それは、欲望が伝染するものだからです。あるいは、難しい言い方をすると、広告やマーケティングによって、欲望は再生産されるものだからです。


街を歩いていると、そこかしこに脱毛やエステの広告を見かけるでしょう。

その広告では、たいてい美人な女性やイケメンな男性が、にこやかに微笑んでいることでしょう。

あれは、「この店で脱毛すればこの女性のように美しくなれますよ」というメッセージを、見る人にすり込んでいるのです。そして、それは必然に、見る側に「ああいう美人になりたい」という欲望を抱かせることにつながります。


あるいは、恋愛というのもそうです。

流行りの曲の大半は、男女の恋愛にまつわる気持ちを歌い上げたものでしょう。冬になれば街にイルミネーションが灯り、街をカップル達がたくさん行き来します。そうした光景を目にしていると、どこか「恋人がいるのが当たり前」であって、「いない自分はおかしい」あるいは「自分も恋人が欲しい」と思うようになるでしょう。

しかし、現実的には、いつの時代も恋愛に向いた素質を持つ男女は、だいたい3割ほどしかいないと言われています。

そのほかに「恋愛に向いているわけでもないけれど、向いてないわけでもない」という「普通の人」が3割いると考えると、残りの4割は「恋愛に向いていない人」なのです。

その4割の人が、知らず知らずのうちに「恋人が欲しい」という欲望を抱いてしまうと、これもまた不幸につながります。「恋人が欲しいけど、現実には異性に相手にしてもらえない」という欲望と現実の落差が、常にその人を苦しめるからです。


わたしたちは、このように「欲望は霊のようなもの」だということを理解して、悪い霊に取り憑かれないように注意して生きなければなりません。


では、知らず知らずのうちに「悪い欲望」に取り憑かれてしまったときは、どうしたら良いでしょうか?


答えは簡単です。欲望を捨てることです。


しかし、そう言っても難しいでしょう。

欲望はしばしば、その人の自我と結びついて、心の中に深く根を張っているからです。いわば、欲望が自我と結びついて、その人の存在理由のようになっていることがあります。


そういうときは、あなたの自我も捨ててしまうことです。


「えっ自我を捨てる?大丈夫なの?」と思われた人もいるかもしれません。

しかし、大丈夫なのです。まったく問題ありません。


わたくしが以前の記事で書いたように、この世界はすべて「至大存在」と呼ばれるものの意思で動いています。

あなたは日々、自分の意思で行動しているように見えて、じっさいにはより大きな動きに流されているのです。そして、その大きな動きを作り出すのが、至大存在です。

あなたは結局、至大存在のなすがままに流されて生きているというわけです。

その大きな流れの中で、どういった自我をもって、どう行動するかは、ほんのささいなことです。個人のレベルでは、自我が意味あるもののように思えるかもしれませんが、じっさいにはそうではないというのが現実です。

言ってみれば、実は人は自動運転なのです。あなたがハンドルを握って、左に回したり右に回したりして車を動かしていると思っているのは幻想で、じっさいには車は自動的に左に曲がり、右に曲がって走っています。


自我を捨て、大きな流れに身をまかせて、ただぼーっとして生きてみることです。

その中で、新たに「これをやらなくちゃいけない」といった思いが湧いてくることがあるでしょう。そうしたら、それをやれば良いのです。

そのときには、悪い欲望に取り憑かれていた頃とは打って変わって、すがすがしい綺麗な心で取り組むことができるでしょう。


みなさまが悪い欲望から解き放たれ、すがすがしい気持ちで日々を生きられることを願っています。

時計が消えた日 第1日目・朝

目を覚ますと、遮光カーテンの隙間から明るい陽の光が差し込んでいた。カーテン越しに、通りを往来する車の音が聞こえてくる。

「しまった…か?」

前進はそう呟く。

今日は10時20分から必修の授業がある。毎回、授業の冒頭で出欠を確認するので、遅刻はできない。

前進は布団から左腕を抜き出し、その長袖パジャマの袖を右手でちょいと引っ張った。彼は普段、「チープカシオ」と呼ばれるカシオ製の腕時計を左腕に巻いて寝ている。軽くて着け心地が良好なので、日常的に愛用しているのだった。パジャマの綿生地がスルリと前腕を撫で、左手首が露わになる。そこに時計はなかった。

「おかしいな」

そう呟きながら、左に寝返りを打つ。枕元にスマホが置かれていた。

前進はスマホに手を伸ばし、筐体を掴むと、手首をひょいと捻って傾けた。液晶にロック画面の表示が灯る。設定では、そこに時刻が表示されることになっていた。しかし今、時刻を示す数字の並びは画面のどこにも映っていない。まるで、はじめからそこに時刻など表示されない設定だったかのように。

前進は違和感を覚知した。今朝はどうもおかしい。

ともあれ、授業は10時20分から始まる。今が何時何分なのか、知る必要がある。

幸いにして、前進は腕時計を収集することを癖としていた。一人暮らしをしている彼の部屋には、計6本の時計があるはずだった。1本は、昨晩左腕に巻いて寝たはずのチープカシオ。そして残りの5本は、机の上に置かれた腕時計保管ケースの中に収納されている。そのいずれか1本でも確認できればいい。

前進は上体を起こし、布団を横に剥いだ。この頃は朝方に冷え込むようになり、布団から出るのが億劫になりつつある。しかし今朝はそれほど寒くない。加えて、先ほどからの違和感とともに妙な緊張が身体に宿っている。彼は反動をつけてベッドから立ち上がり、カーテンを開けた。すでに高く昇った太陽のまばゆい光が、顔に照りつけた。彼の住むマンション12階の窓には、秋らしい清々しさを感じさせる濃い水色の空が広がり、刷毛ですうっと掃いたような薄く白い雲が浮かんでいる。

前進はしばし空と、その下に広がる灰色のビルの街並みと、その間を行き来する車や人の動きを眺めた。それから窓際の机に向き合った。息を吸って、スーッと吐いて、腕時計保管ケースの蓋を開ける。その中は買ったばかりの時のように、ガラリと空っぽだった。

「泥棒か…?」

部屋を見渡す。机の上に置いたボールペンが12時方向から微妙にズレた方向を指して静止しているその角度、床の上に積み上げた教材の塔が絶妙なバランスを保って崩れずにいる姿、昨日ポケットから取り出して適当に本の上に置いたままのハンカチの畳み皺。すべてが昨晩の寝る前そのままであった。そして前進も、その確認が意味のないことにもはや気づいていた。

「時計が消えた…存在そのものが」

違和感の正体はこれだった。

この世界を、こうあれと意思する者

この世界を、こうあれと意思する者がいる。

この世界全体をくまなく支配する、とてつもなく大きな存在である。

私は前回、それを「至大存在」と名付けた。

 

この世界で起きる事象は、すべて至大存在の意思である。

先週の台風19号は、各地に大きな爪痕を残し、多くの人が犠牲になった。それも、至大存在がそうあれと意思したのだ。

 

このように書くと、至大存在がいかにも無慈悲なことを企む、悪の根源であるように思えてくるかもしれない。しかし、そうではない。

至大存在は、善悪の彼岸にいる。

そもそも善や悪といった観念は、我々人間が産み出したものであり、至大存在には適用できない。

至大存在は、とてつもなく大きく、この世界の全体と輪郭を同じくしている。

人間が「こうあるべき」と考える世界を、はるかに超えて存在している。

ゆえに、そのあり方は善でも悪でもなく、強いて言えば「真(シン)」の大前提なのである。

 

また、至大存在は「こうあれ」と意思する者だが、それは我々が「神」と呼ぶ、人格ある存在とは異なる。

「神」とは、この世界を創り操る存在を、人間の姿との類比でイメージした存在である。

至大存在は、そのような姿形を持たない。あるいは、その姿形は、この世界すべてにピッタリと密着しているとも言える。

至大存在は、言葉で命令することをしない。

至大存在が抱いた意思は、何ものをも介することなくそのままに、瞬時にこの世界に反映される。

我々の生きる現実は、その瞬間瞬間が連続したものである。

或る大きな存在が突如として横切っていく

今週末、首都圏に台風が上陸するらしい。

大型で、猛烈な勢力とのことだ。

気象庁は接近の3日前から注意を呼びかけ、街やネットの人々もどこか慌ただしい様子で、来たるべき台風への心の準備を進めている。

 

ところで、あなたの人生で、こういう経験はないだろうか。

ある日、まったく思いがけないタイミングで、ある大きな存在がやってくる。

それは危機だったり、思いがけない幸福だったりするが、まったく気配を感じていなかったところに、なにかがやってくる予兆を感じる。

それは2、3日もすると確実にすぐ傍に迫ってきて、これは何事かと思っているうちに、あっという間に<わたし>をその大きな渦に巻き込み、なにもかもをかき乱して去っていく。

いままで積み上げてきた細々とした煩悩、知識、憧れといったものを吹き飛ばし、<わたし>の心の屋台骨をぐらつかせ、いままで向いていた方角さえどちらだったかを忘れさせて。

 

私は、<わたし>に突如として接近し、<わたし>のすべてをかき乱して去っていくその大きな存在を、「至大存在」と呼ぶことにしている。

至大存在の前には、われわれ人間はちっぽけで無力だ。

ただ、なすがままに身を預け、まな板の上の鯉のようにすべてを至大存在の意思に任せるほかない。

 

このブログで、私は、この至大存在について語っていきたいと思う。