【日常録】夕暮れの住宅街を散歩すること

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私は、夕暮れの住宅街を散歩するのが好きである。

住宅街、それも実際に住んでいる家から遠く隔たった、初めて駅から降り立ったような場所がいい。

 

夕暮れ時、駅の改札を抜け、家路を急ぐサラリーマンたちに紛れて、私も住宅街へと向かう。あたかも、私もまた家路につく一人であるような顔をして、薄暗く青い空の下を歩く。

10分ほど歩き続けて、私の前を歩いていたサラリーマンたちが、一人、また一人と、立ち並ぶ家のドアへと吸い込まれていく。

その様を見届けながら、あるとき心の奥底に、「もしかしたら私の家もこの近くにあるのではないか?」との錯覚が生まれてくる。

 

あの角を曲がれば、そこに私の家があるのではないか。

しかし、曲がっても、私の家は見当たらない。

向こうに見える、次の角を曲がれば…しかし見当たらない。

 

そんなことを繰り返しているうちに、すでに駅から離れてしまって、それでも私の家は見つからない。

これ以上歩くと、もはや帰る道も分からなくなってしまうので、引き返すほかない。

 

私の家は、どこにもなかった。

私の立っているすぐ隣には、窓に橙色の明りが灯る、こぢんまりとした戸建ての家がある。

中から子どもの笑い声と、音量は小さいけれど賑やかなテレビ番組の音声が聞こえてくる。

反対側の家からは、金物の料理器具がぶつかる音が聞こえてくる。

住宅の密集したこの場所に、多くの人の生活が存在しているのに、私の居場所はどこにもない。

その疎外感に心がずんと重くなりながら、駅へと戻る道すがら、時折、踏切の警告音が聞こえてきたりすると、なぜか心が少し楽になるような気がするのだ。

 

さて、駅について、私の家のある街へ帰る電車を探す。

電車に乗ると、同じく「家のある街」へ帰ろうとしている人々がいる。

私は、やっと同じ境遇の人と合流できたことに安心感を抱きながら、自分の生きる現実へと戻っていくのである。

柔らかくクッション性のある座席に座り、心地よい振動に身を任せていると、住宅街を歩き回った疲労感から、ウトウトしてくる。

電車を降りたら、駅前のラーメン屋で夕食にしようなどと、薄れゆく意識の中で考えていた。