【日常録】人生の低成長時代について

本ブログは、私の信仰を書き記すために開設されたものであった。

しかし、元々、文章を書くのがあまり得意ではない上に、信仰というものが直観される機会はそうそう訪れるものではないため、すっかり記事の更新が滞っていた。

そこで、今回から、日々の雑感を書き記すことで、本ブログを再活用していこうと思う。

 

時間は、経過していく。年齢も、否が応にも積み重ねられていく。

しかし、ここ数年、私の人生は停滞していると感じる。

 

人間、幼いうちは、日進月歩の勢いで成長していくものだ。

10代後半にもなれば、身体的にはほぼ「大人」と変わりないほどに成長し、その後もなお内面的な成長は続いていく。

もっとも、勢いのある成長はいつまでも続かない。

例えば、身長の成長のピークは10代後半で止まり、その後は低成長あるいは維持、いずれは衰退の時代を迎えざるを得ない。

そして、これは身体の成長に限った話ではなく、内面も同様ではないかと思う。

10代よりは20歳の方が、20歳よりは25歳の方が、精神は「大人」になっているのが通常である。しかし、精神の成長も次第に鈍化していくもので、私の実感としては、25歳を超えた辺りから、自分の内面的な部分はあまり変わらなくなってしまった気がする。

大人になるということは、すでに成長の時代を終えて、良くて低成長、現実的には現状維持、そしていずれは衰退していく自分自身を受け入れていくことでもあるのではないか。

 

もっとも、仮に低成長時代に突入したとしても、大人の人生は必ずしも退屈なものではない。

大人は、自らの成長の代わりに、次世代を担う子ども達を成長させる役割を担っている。

大人になり、誰かと結婚し、家庭を持ち、子が生まれ、子が日々育っていく。

そのように目の前の景色が次々と移り変わっていけば、決して、低成長時代にあっても退屈を覚えることはないだろう。

 

さて、私の人生が停滞していると感じるのは、この点に関してである。

私は、20代後半でありながらいまだに学生をしていて、まとまったお金もなく、交際している異性もいない。

とりわけ、今は新型コロナウイルス感染症の影響で、外で人と会うことが制限されている時期であり、異性との縁が発生する余地もない。

もっとも、これはコロナ以前においても、そうだったのだが…。

 

勉強面では、専門分野の勉強をだらだらと続けており、日々新たなことを理解できたり、できなかったり、あるいは忘れてしまったりするが、総じて多少、進歩できているような気がしないでもない。

しかし、勉強していることを仕事に使えるようになるのは、早くても数年後であるから、成果に結びつくまでまだ時間がかかる。

 

たまに、高校時代の友人と話をすることがある。

私の友人は、私と同じく、あまり異性から人気のない男たちであり、異性関係での華々しい話を聞くことはない。

そこで出てくる話題といえば、最近のゲームとか、アニメとか、YouTubeの面白い動画とか、仕事のことである。この点では、私と彼らの共通の関心事は、昔からあまり変わっていないのかもしれない。

彼らもまた、私と似たような人生を送っているのだろうか。(もっとも、彼らは定職に就いているので、その点は私とは異なる。)

 

大人になると、人生は低成長になる。

だからこそ、新たに家庭を持ったりして、自分の置かれている状況、目の前の景色を変えることが重要になり、そうすることで退屈せずに人生を生きられるのだと思う。

しかし、私の人生は、今のところ、ゼンマイの切れた時計のように止まってしまって、動き出す気配がない。

あるいは、これは私だけでなく、似たように感じている仲間もいるだろうか。

よく分からないが、早く「大人の人生」を始動させたいものである。